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中橋愛生(NAPP)の不定期日記
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 最近、「作曲するってどういう行為なんだろう」と考えさせられる機会が3つほど
立て続けにあったので、書いてみます。(といっても、私信で書いたもののコピペが
ほとんどですが)
 広い意味(もしくは深い意味)で問うてるわけではないです。ほんとに狭い意味
での「作曲」の話です。


 最近、とあるサイトからリンクの申し出を受け、お断りしました。そのサイトは、
作曲の勉強をしている人たちがそれぞれ自作の曲をMIDIでアップロードしたものを
まとめて保存する、というサイトです。
お断りした理由は、下記の通りでした。

〜〜

 私見ですが、私は「作曲」というものを次のように考えております。
 まず、「音の趣味」であるとか「音楽の形式」、「旋律の良し悪し」、
「オーケストレーションの巧拙」などは、音楽学ならともかく、作曲においては、
各表現者の自由であり、それに対して第三者がとやかく言うことはできない、
と考えております。ですので、私が誰かに作曲を教える際も、これらの点に
関して「こうした方がいい」とは基本的に口出ししません。(確認の念を
押したり、「これは不可能だよ」、と言うことはありますが)
 では「作曲の技術」とは何か、と言いますと、それは、「自分の表現したい
ことを第三者に伝える技術」だと思います。つまり、「楽譜によってどう演奏者に
伝えるか」という「記譜の技術」です。こうしてもらいたいなら、こういうアーティ
キュレーションをつける、等といった諸々の技術というのは、やはり人に習わなければ
習得するのは難しいところです。
 つまり、私の考える「作曲の勉強」とは「何を書くか」ではなく「どう書くか」の
問題なのです。作曲をやりたい人間が「何を書くか」を持っているのは、当たり前
なのですから。
 MIDIなどを使用した作曲というのは、その「人(演奏者)に伝える」という部分を
欠いているがために、そうした「私の考える作曲」とは根本的に違うものです。人に
演奏してもらう必要がない(楽譜にて第三者に
伝える必要がない)音楽作品というのは、結局「その人が表現したい《だけ》の音楽」に
過ぎず、そうした部分は、最初に書きました通り、第三者が口出しできるものではない
と思います。
 そして、私が吹奏楽に求めるのは、「人が演奏する音楽」です。それを行おうと
している人に対して何か私が言えることは、何度も書いております通り、「伝える
手段」に関してのみです。
 残念ながら、皆様が発表されている音楽が、楽譜によらず「結果」のみである以上、
私との接点はあり得ません。ですので、私のサイトからそちらにリンクをさせて頂く
ことは出来ません。これは、MIDIによる作曲が蔓延している吹奏楽の世界を忌み嫌う
という私の主義からです。ご理解下さい。

〜〜

 このように、私は「作曲する」という行為でも「楽譜を書く」という行為をとても
重要視しているわけです。で、それは更に「何を書くか」の問題ではなく、「どう
(伝えるために)書くか」という問題に尽きる。

(注:自分たちで作曲をやってみたい、それを多くの人に聴いてもらいたい、という
   欲求は、それ自体はとても素晴らしい、意義のあることだと思います。
   問題としているのは、その手段として楽譜の存在がない、ということです。)

 更に、つい最近、メールでやりとりをしていた人からこんな質問を受けました。

「演奏者が曲を演奏する場合、作曲者としては楽譜通りに素直に演奏してもらうことが
一番嬉しいことなのですか?指揮者によりいろんな解釈で演奏が変わってきますが
そういうことは気分が悪くなるものでしょうか?」

 それに対する私の返信は、こうです。

〜〜

 許せる範囲と許せない範囲はありますね。「どうしてもこうでなければならない」と
思うのだったら作曲者はそう演奏されるように楽譜を書くべきですし、そのつもりで
書いたのに演奏者にそれが伝わらないのであれば伝える能力に欠けていた作曲者が悪い、
と思います。
 しかし、誰がどう楽譜を読んでもあり得ないような解釈をされると、さすがに気分が
悪くなります(笑)

〜〜

 ところが、このように楽譜を書く、というのは実に難しいことなのです。
 酒井さんのように経験豊かな作曲家でさえ、意図通りにいかないことがあるそう
なのですから。
http://blog.livedoor.jp/ismusic/archives/20735550.html
 酒井さんが師匠の田中邦彦先生に言われていたことと全く同じ事を、私は師匠の
西村朗先生に言われ続けてきました。だから、できるだけ細かくアーティキュレーションを
つけ、crescやdimの始点と終点には必ずディナミクスを書く(無い場合はal niente
もしくはdal niente)ことを自分に義務づけています。(ちなみに、見にくいですが
画像は拙作の一部) 私は練習に立ち会ったときは基本的に「楽譜に書いてある通りに
吹いてもらえればいいです」としか言いません。逆に言えば、楽譜に書いてある範囲内で
あれば、どういう解釈をされてもいいと思っています。
 ところが、演奏者のなかには「こんなにがんじがらめに書いてあると、思うように
吹けない」と言う人もいます。これは正直心外です。ある一つのアーティキュレーションが
あったとしたら、その解釈一つにしても幾通りものやり方があるはずなのに。

 最近思うのは、楽譜が読めない(あるいは、読めていないことに気づいていない)奏者が
多い、ということです。そして、楽譜を書けない作曲家(自称)も多い、ということ。

 少なくとも「人に伝える」という事の難しさ、責任の重さを、作曲家は考えて
いくべきでしょう。例え、それが吹奏楽の世界に多い「日曜作曲家」だとしても。
おたまじゃくしを並べれば作曲だという考えは、万死に値するのです。

 私も自分の記譜法を見つめ直す必要があるのかもしれません。
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無題
こんばんは。中橋先生の楽譜って、指示が細かいですね!
長崎市吹の「シンタックス・エラー」、至極かっこよかったです *^v^*
こういう楽譜から、ああいう素敵な演奏が生まれるんですね。
私もがんばります☆
つるみ 2005/05/04(Wed)01:12:00 編集
無題
「楽譜のこと」

NAPPのプロフィール、そして日記というか駄文 - 自己主張

友人でもある作曲家中橋愛生君が楽譜のことについてブログで触れていたので僕もちょっと。
要するに「作曲とは奏者に伝えるために楽譜で記す」ということで捉えているそうな。

私は演奏側の者ですので楽譜に相対するときには趣が異なってきます。
僕は自身を演奏者である以上“表現者”としてのマインドは皆と同様なのですが、それと同時に“再現者”としての立場を持っておきたいと常に思っています。である以上僕にとって作曲家が記した楽譜の存在はとても大きいものと言えます。

中橋君がそのブログの中で奏者側の言い分として触れられている...
Takuの日記帳もどき URL 2005/05/04(Wed)02:45:00 編集
無題
> つるみさん
長崎市吹指揮者です。ご来場ありがとうございました。
「シンタックス・エラー」はそこかしこに仕掛けが多い曲だったので演奏者もなかなか苦戦した曲でしたが、皆よく勉強もしてくれて最終的にはとても満足のいく演奏となりました。「かっこよかった」と言って貰えるのはそんな意味ではとても光栄です。

> 頁主様
課題曲落ちした意味においてもこの作品は愛され始めていると言える気がしませんか?うちの団員達も当初は「なんやこの曲???」ってな感じの反応でしたが、最終的には「おもろい、かっこええ、おそるべし」といった感想に変化しました。もっと多くの楽団で扱われることを祈りたいと思いますよ。
ちんぴら指揮者 URL 2005/05/04(Wed)02:46:00 編集
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NAPP
年齢:
45
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性別:
男性
誕生日:
1978/06/19
職業:
作曲家、のはず
自己紹介:
作曲家。
東京音楽大学・非常勤講師(作曲)。
NHK-FM「吹奏楽のひびき」担当。
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